軽い生立ちから。

さて、最初の記事に書いた通り、まず私の生立ちから説明しようと思う。
なお、性的な話も出てくるので苦手な方はこの記事を読まない事をおすすめする。
家族構成を簡単に言うと、生まれた時は両親、祖母、歳の離れた兄と私(ちなみに私は女である)の五人家族だった。
生まれはとある地方都市、それなりに有名な観光地があるが田舎の方である。
私が記憶している限り、小さい頃から母と祖母の折り合いは悪く毎日喧嘩をしていた記憶しかない。
板ばさみになっていた私はご機嫌取りに必死で、どうにかして祖母と母親の仲を取り持とうと、ありとあらゆる冗談を言ったりしていたが、それが気にくわなかった母は私を役に立たない頭のおかしい子と認識したようで、些細なことで叩いたりライターで肌を炙ったり、風呂場の水に顔を突っ込ませては暴言を吐くのが日常になっていた。(ちなみに父親は空気で、殆ど話した事がなかった。)
逆に兄は成績優秀、真面目で性格も良く、母と祖母の自慢の子であった。少なくとも彼女達の前では。
成績も容姿もあまり優れていない私にはサンドバックのように当たり散らし、虐めという虐めをやり尽くした。
殴る蹴る、物を隠す取り上げる、暴言、更には性的暴力もかなりやられた。おぞましい所を舐められたり、喘ぎ声を出せと強要されたり。故に、私は今でも男性不信である。特に若い男性が苦手で、失礼なのは重々理解しているが、目も合わせられない位怖いのだ。未だに近くにいるだけでも震えてしまう。
勿論母に、兄が暴力を振るうと訴えた事も一度や二度ではない。しかし態度のいい兄がそんなことをするわけがないと逆に彼女は私を責めた。味方はいないと悟ったのはこの時である。
そして更に輪をかけるように、近所の兄と同級生の女性がレズだった(それとも単に相手がいなかったのかわからない)が、幼稚園児位だった私にディープキスをしたり、体を触ったりしてきたものだから更に性的なものが苦手になっていき、私はどんどんおかしな子供に育ってしまっていた。かといって、兄やその女性に逆らえば叩かれたり暴言を吐かれたり仲間外れにされたりするので我慢するしかなかったのだが(ちなみに、今はかなり改善されたが、男性とお付き合いしてもまともな恋愛らしきものができたことはない。)
学校でも当然のように馴染めずいじめられ、臭いだの叩かれたりだの、言い飽きる位一通りの事はやられていた。
いじめも、スカートを切られたり、大事にしていた兎(勿論生きている)の首をはね、それを全員で私が殺したと言い張ったり、今考えればとんでもない事をされていたと思う。
勿論私自身の性格が原因だったのは今にして思う部分もある。常に構って欲しく、ヒステリーを起こしては周りに迷惑をかけ、いつも情緒不安定で教師も手を焼いていただろう。
だが教師は教師で、いじめられていると訴えた私を嘘つきだと言っていじめていた人間に謝れとまで言い、所詮先生などという生き物は全員信用できないと確信するまでそう時間はかからなかった。
男は汚くて気持ち悪いもの、女は陰険なもの、大人は見て見ぬふりをする卑怯な生き物だと捻くれた私は不登校になり、やがて家に閉じ籠るようになったが、外聞を気にする母親に半ば無理矢理保健室登校をさせられ何とか学校に復帰し通い続けた。やはりいじめはなくならなかったが。
途中、ある病気にかかり入院した時に知り合った男の子に初めて恋をしたこともあったが、呆気なくそれは終わった。亡くなったのだ。私は人に入れ込むのもやめた。
中学からはやっと深入りしない、されない程度の悪友もできて楽しかった。相変わらず男子には目の敵にされていたのだが。
そして転機は中学三年の時に訪れた。とあるゲームにはまっていた時、ネットで好きなキャラクターの絵を描いている女性(仮にYさんとする)に出会う。
その人の絵に惚れ込んだ私は勇気を持ってweb拍手にメッセージを入れてみた。すると即座に返事を頂き、そこから段々と仲良くなり、いつの間にか家庭の事情をYさんに打ち明けてしまっていたのだ。
すると彼女は「辛かったね」と言ってくれて、私はひどく驚いた覚えがある。顔も声も知らない人から優しくされたことにびっくりしたのだ。
そして月日は流れ、夜間の定時制高校に入り昼間はバイトをし、家にお金を入れ余りは学費に使っていた。その為貯金はなく、満足に服も買えなかったが、社会人になれば貯まるだろうと思っていた。
しかし社会人になっても母親の金の搾取は続き、ろくに金を稼げない無職の兄の暴力に耐えながらブラック企業に勤める日々を送る事になる。
朝の四時~六時から酷い時には夜の十二時一時まで働き、休みも週に一日位で、週に二日あれば大喜びだったが、それでも挫けなかったのは職場の人間関係の良さとYさんの励ましがあったからだし、この会社の為なら働けるという社畜根性があったからだと今にして思う。
しかしお金を貯めて家を出たかった私を、金の生る木だと思っていた母親と兄は許さなかった。
通帳を盗み見、財布から金を抜き、足りないからもっと出せと強要し断ると役立たずと罵り暴力をする母親と兄に怯えきっていた私に救いの手を差し伸べていたのはまたしてもYさんだった。
「もし良ければ親元を離れ一緒に暮らさないか」と声をかけてくれたのだ。
当然貯金はない。しかし彼女は嫌な顔一つせず都会に引っ越せるよう手配してくれ、言った言葉はお金はこちらで稼いで返してくれればいい、と一言だけ。
そしてその通りにしようと一旦就職したが足の怪我を理由に解雇された事により鬱病を発症と診断され、暫く通院するも一向に良くはならなかった。
その間に必死にとある資格を取り、障害者手帳を申請し無事受理され数年経った。
その後別の病院にかかり、統合失調と判断され「あなたは多分一生治らない」と宣告され今に至る。
Yさんは統合失調を本格的に患って金銭的に頼る事はできないと思い生活保護に移った時も色々と世話を焼いてくれ、未だに私は彼女に足を向けて寝れない日々を送っている。
前置きが長くなったが、大体の人生はこんなものである。特に面白みもないが、まあこんな人生を送ってきた人間で、今までの体験が原因の一部であると仮定した上で次の「統合失調」の話に耳を傾けて頂けるとありがたい。
勿論普通の家庭でも何らかの原因で発症することは珍しくないので、誤解なきようご理解下さい。
では、次回記事にて。